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鹿の角切り行事

  • 川上悠介
  • 2017年10月15日
  • 読了時間: 4分

10/7-9の3日間、奈良公園の鹿の保護施設である鹿苑にて、1672年より約345年続く伝統行事「鹿の角切り」が執り行われた。

当時の角きりは町の所々で行われ、店先や人家の格子の中、屋根の上などから見物していたようである。明治時代の中頃には、春日大社の参道の所々で角きりが行われ、1929年(昭和4年)より現在の角きり場を設け現在の姿となったそうである。明治・昭和の戦乱期の一時中断を除き、現在まで継承されている古都奈良ならではの勇壮な伝統行事となっている。

発情期をむかえた雄鹿の角は鋭利に尖り、それにより住民や観光客が危害を受けたり、鹿がお互いに突き合って死傷することを防ぐため、現在では人と鹿とが共存するための最善策とされている。

(※角は切っても切らなくても春に抜け落ち、毎年新しい角に生え変わる)

あくまで「最善策」である。私としてはこの行事に対しては複雑な思いを抱いている。

本当に必要な行事なのだろうか。角のない雄鹿を見るたびに無様に思う。

科学的立証のないただの持論だが、写真とともにご一読頂ければ幸いである。

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そもそも鹿は草食動物であり肉食動物(人間を含む)に捕食対象であるため、当然ながら捕食者に対しては強い警戒心を持っている。真の野生の鹿は人の姿を見ただけで警戒の鳴き声を上げて逃げる。そんな鹿が人を襲うことなどまずないのである。

ではなぜ奈良公園にいる鹿が稀に人を襲うことがあるのだろうか。原因を作ったのは人の餌付けではないだろうか。

観光地にいる鹿は餌付けされているため人に対して警戒心が弱い。そして常に餌付けされている鹿はそれを当然のことと思い込み、餌を寄越さない人に対しては「おねだり」する。「おねだり」の仕方には当然個性差がある。警戒心を持ちながらおねだりする鹿も入れば、大きな口で噛んだり、立派な角で突いたりする鹿もいる。発情期になって角が尖り、気性が荒くなる雄鹿であればなおさら危険だろう。

だからと言って角を切る、というのは人間の身勝手ではないだろうか。そして危ないからと言って危険因子を取り除くことは、返って危険を認知する能力を低下させていると思う。

奈良公園は人と動物が共存する稀有な場所である。動物園などと違い柵を隔てずにこんなに野生に近い動物の生活を間近で観察できる場所などほとんどないだろう。「動物に対してどういう行為をすると危険なのか」を身を持って体感できる貴重な場所であると思う。

また、餌付けをしなくなったら奈良公園から鹿がいなくなるか?おそらくそんなことはないだろう。人の餌付けの量などたかがしれている。観光客の与える鹿せんべいはおやつ程度にもならない。奈良公園には広大な芝地があり、食べる物には困らないから人から距離を置くことはあっても居続けるだろう。餌付けは人の自尊心を満たすだけで、鹿のためには決してならない、という風に考えている。

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さて、今回は特別に神官や勢子たちに混じって中から撮影させて頂いた。勢子たちに焦点を当てた写真と雄鹿に焦点を当てた写真の2つのギャラリー(各27枚)に分けた。

会場でこの行事を見られた方はどのように思われただろうか?三頭の雄鹿が場内を猛スピードで走り周り、勢子たちが鹿の角に縄をかけて鹿の体を抑えに行く。一歩間違えば鹿の角に突き刺されて死ぬ状況である。私も撮影していてその危険性を直に感じた。レンズ越しに雄鹿がこっちを向いて走ってくる時は正直恐怖に慄いた。勢子たちの勇敢さに賞賛を讃えずにはいられない。彼らの勇壮を写真でご覧いただきたい。

1st gallery「勢子たちの勇壮」

一方、雄鹿に焦点を当てた写真。彼らの必死で生き延びようとする姿(もちろん殺すわけではなく角を切られるだけ)をとくとご覧いただきたい。

2nd gallery「雄鹿たちの雄壮」

長らく続いている伝統行事であり、すぐに無くすのは無理だろう。しかし、人にとっても鹿にとっても危ない思い、嫌な思いをするのは確かである。この行事がいつか過去のものとなることを願って。

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